最近、Baby Princess、というか星花の影響で、
蜀の国に関して調べるようになったり。
これまでは、呉を調べて遊んでたのですけどねぇ。

さて、演義での蜀の国の滅亡は、
劉備の息子劉禅が、魏の鄧艾に宮中に攻められ降伏する、
という流れですが。
その前の蜀の国内情勢に関して推論。
時代を逆行しつつ推論を広げて行きます。
なので、結論を述べて、原因を後に紹介する書き方で。


演義でよく言われる蜀の滅亡要因は二つ。
1.劉禅が宦官の黄皓に言われるままの政治を行うようになっていたため。
2.孔明の後継者とされている姜維の無理な北伐によって、
  国力が疲弊していたため。

さて、この二つですが、その両方の原因となる一つが以下です。
蜀の優れた政治家として四相(それぞれの役職名はばらばらですが、
孔明の丞相という役職にちなんでまとめて相に)が上げられます。
諸葛亮、蒋琬、費禕、董允の四人です。
この四人は蜀の建国にも力を尽くしていたので、
蜀を守るためにも十分働きました。
最後の董允が亡くなってから、後を陳祗に託されてから、
宦官の黄皓が政治に口出しできるようになったのですよね。

で、自分の今回の着眼点はそれぞれの出身地
諸葛亮:徐州
蒋琬:荊州
費禕:荊州
董允:益州
陳祗:益州(生まれは予州)
姜維:涼州

ちなみに、益州が蜀の本拠地です。
蜀建国時には、益州と荊州が領地でしたが、
関羽の死とともに、荊州を失います。
あと、姜維の北伐の第一目標は涼州です。

諸葛亮が蜀を建国したときの人事は、荊州、益州がバランス取れてたのですが、
蒋琬、費禕の時代になると、周りは益州人のみになります。
益州出身の人は、蜀は自分の国なので、自分の国が守れれば良い、
という状態になります。
ですが、それ以外の出身者は、自分の出身国、もしくは、
劉備、諸葛亮の意思を継いで、漢の再興を願います。
この辺りで蜀という国の内部分裂が心底にあるのかと思います。


さて、それでは蜀の建国について多少演義を知ってる人に対する
注釈をつけて終わろうかと。
劉備が蜀という国を作り皇帝になりましたが、
これは中国の正史からみれば、正式な皇帝ではありません。
正式な皇帝は、後漢から禅譲されて後を継いだ、魏になります。
また、蜀という国名ですが、これは地名を引き継いだのと、
あとから三国状態になったときに便宜上、蜀と呼ばれているだけで、
劉備自身は、後漢の跡継ぎとして、漢の皇帝としています。
後世では、それをわずかな間の漢という意味で、季漢 と、
呼んだりしています。


とつらつらと書き綴りつつ、
星花は蜀の滅亡をどう思っているのかなぁ、と考えたり。
個人的には劉禅は国民の事を思って降伏した潔い君主として
思ってくれてれば良いのですが。
益州の人から見れば、劉備たちは侵略者ですし。
魏(漢の正式な後継)に吸収されるなら元に戻るだけですから。

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